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Tuesday, January 31, 2012

インドとネパール、マニュファクチャーを巡る旅 Vol.4/カトマンズ

 カトマンズ到着初日は、マニュファクチャーに直行した。春の新製品発売に向けて大詰め作業が待っている。初めて行く場所。どうも住宅地らしく、家々の垣根からピンクや白の花が顔をのぞかせている。壁面はいつものネパール赤レンガ建築。彼らのオフィスの庭には手入れがなされた芝生が整然と広がり、番犬用として犬が飼われていた。どうもご近所は政府関係者や企業派遣者が住む界隈らしい。
 土足厳禁、スリッパに履き替えて、内部に入る。が、薄暗い。冬のネパールは、昼間の7、8時間しか電気がない。その他は真っ暗かバックアップ電気で急場をしのぐ。しからばミーティングは、なんとその芝生の前に椅子を持って来て、行う。外でも中でもコートは着たまま。一見豪華に見える石造りの家は、足元からお腹まで冷えが来て、どうにもこうにも調子が悪い。いざという時のためにトイレの場所の確認はおさおさ怠りなく…。
 リテイルマネジャーが戻ってきて、私を残してひとしきりネパール語での会話が続く。聞けば、空港近辺の道路を拡充すべく、川べりの家々を取り壊しているらしい。で、その家々は元々無認可で建てられたものだが、立ち退きを命ぜられた住民達がデモを組んで大騒ぎになっているとか。「っつか、家って建てるのに許可いるでしょ、普通?」「建ててる時は政府は寝ていたんだな」。なんてー、国なのだろう、ここは。
 その日は午後5時に電気が消えるとかで終業。私はそれからゲストハウスに向かった。ブッダガヤのネットカフェで3分で決めた宿だから、ほとんど期待はしていなかったが、その晩はお湯が出ない、と言う。送りに来てくれたBデブに「他の宿に移ろうか?」「いや、他の所がお湯がでるかどうかは、なんともわからない」「!」。ああそうだ、ここはネパールだった。「これもネパールのひとつの経験だと思って。あははは…」と乾いた笑いを残してBデブは帰って行った。追加料金を払って、暖房のある部屋に変えてもらった。が、暖房機からは涼やかな送風が流れて来る。部屋にいたら足が冷たい。外に出て、といっても、薄目を開けたようなか細い電柱が夜道を照らす。インドも暗かったが、ネパールはさらに薄暗い。インドが60Wだとしたらネパールは35Wくらいの明るさに思える。そして彼らは夜行性なのだろうか、こんなに薄暗いのに車やバイクはひっきりなしに飛ばしている。
 宿の向かいのローカルレストランに行った。庭先で、10代の男の子達がコーラ飲みながら、わいわいと話している。見ればバイクのヘルメットを皆小脇に抱えている。今回、女の子がスクーターに乗っているのに驚いたが、バイクは若い子達のちょっとしたステイタスだ。インドから輸入された135CC。Bデブも明日それで迎えに来てくれると言う。彼らなりの生きるエネルギーをちょっとだけ感じた。

Monday, January 30, 2012

インドとネパール、マニュファクチャーを巡る旅 Vol.3/ネパールへ

 ブッダガヤでは、チベット人ファミリーのディナーにおよばれしたり、出店をひやかしたり、はたまた真剣に買い付けをしてしまったりと、カーラチャクラをさておいてな楽しい3日を過ごしてしまった。宿は敬虔なモンゴルおばちゃん達と一緒だが、窓ガラスなしで布で止めてあるだけの窓の真下に寝るのはもうがまんの限界だった。宿の外にいたホームレスに3日間使ったビニールサンダルをあげると、丁重な礼が返って来た。
 そしてオートでガヤ駅に行き、デリー行きの寝台列車に乗る。来た道をまた10時間かけて戻るわけだ。到着は午前5時。カトマンズ行きの飛行機は午後12時30分。これだけあればいくらインド鉄道といえども間に合ってくれるだろう、と思っていたら、2時間遅れの午前7時に着いた。始発〜終着の路線をどこでどうやったら2時間遅れるのか。寝台の相席はタイから来た団体だった。うちの一人は、片言の日本語で去年の3月に日本に行った、と嬉しそうに話す。「日本の女性はキレイ」。ああ、そうですか。「日本の男性は…キタナイ」。正しい単語を操ってはないのだろうが、旅先で相手国を否定する発言はイカンよ。シーンとなってその後の会話は続かず。国際交流はここで終わった。
 預けたスーツケースをホテルに取りに行って、空港行きの地下鉄駅にゴー。みなさん、インドの地下鉄はきれい、というかアメリカとか日本の通常レベルの電車みたいですよ。金属部分はまだ光ってるし、時間にだってちゃんと来る。インドの鉄道、外からみると監獄ぽいものね。家畜運ぶ車両に似てなくもないし。
 新装相成ったインドの空港にて手続きをすませ、カトマンズはネパール行きのゲートへと歩く。ビルの一番奥の奥だ。ここでなんと新年最初のRNC西日本放送ラジオの生放送を行った。恥ずかしかった。だって「もしもし」で、回りのネパール人全員が一斉に振り向くんですよ。そこで約30分携帯と香川のスタジオを結んでのおしゃべり、なかなか貴重なもんでした。
 インドからネパールは本当に近くて、お隣の国。人々の皮膚の色はそのままに、彫は浅く、背格好はやや小さく、服装はどことなく安い感じになってくる。が、ネパールのお得意、ヒマラヤがあるじゃん!、と期待したがこの時期は雲が厚く見えずじまい。5年前とまったく同じ風体の赤レンガ積みの空港に到着し、イミグレで2時間も待たされ、迎えのBデブは待っていてくれるだろうかと心配したが、いた〜!想像より若い〜!想像より小さい〜!想像より黒い〜!
 このBデブがニーマナイマのソープを作っているマニュファクチャーのオーナーなのです。創業当初のソープマニュファクチャーとはもうお付き合いがなく、現在、ソープを提供しているのはこの会社。メールで毎日やりとりし、時折電話でも話はするけど、私と彼は初対面。お互いちょっと照れながら、Bデブが合掌でナマステと迎え、私は両手で握手を返したのだった。

Saturday, January 28, 2012

インドとネパール、マニュファクチャーを巡る旅 Vol.2/ブッダガヤ

 ブッダガヤには20万とも50万とも言われるチベット人が集まって来ていた。カーラチャクラ会場を中心として沿道には土産物の他、期間中だけのチベットレストランがオープンし、人権団体のブースとか寄付を募る場所などもあり、縁日のようで楽しい。驚くことに中国のチベット自治区からやって来ている人もいて、ほとんど交流する方法はなかったのだけど、どうやって来たのか、どうやって帰ったのか、興味はつきない。元旦初日はインドに大雨が降り、勝手のわからない外国人の私などは、入場パスを作りに並び、ビニールカッパを入手して、外人入り口にさらに2時間並び、やっと入場できたと思ったら、青竹で区切られた巨大テント会場内は広すぎて位置関係がつかめない。ダライラマがどこでしゃべっているのかの方向もわからず、ただ巨大スクリーンと土砂降りの雨をものともせず座っているチベット人達の背中をひたすら眺めていた。
 初日のティーチングが終わり、文化祭のような作りの「レストランラサ」で待って待って待たされてようやくトゥクパをオーダー。店内には小さなテレビ画面でチベット関係のドキュメンタリーが流されていた。何度も見た2008年のジョカンのモンク達の涙の訴え、89年のデモ、関係者のインタビュー、レストランにいるチベット人、みんな食い入るように見る。その後での、チベット人権団体のプラカードやここ最近連続して起こる焼身自殺のニュースサインなどにも立ち止まって見たり、それについて何やら会話をしたりしている。チベット人にとって、それらは他人事ではない。親戚の誰かの問題だったり、遠縁の誰かが逮捕されていたり、知人の誰かがその渦中にいたりする、現在進行形で隣り合わせにある問題なのだから。そして、今回ブッダガヤで行われたカーラチャクラは、彼らの大事な里帰りであり、ファミリーの再会を喜び合う一大イベントでもあった。
 2日のティーチングの後は、同じゲストハウスにいたゲシェGの紹介で、ゲルク派のお寺に行く。その夜はどうも祈祷会があるらしい。ゲシェGと一緒にモンゴルから来たおばちゃん信者さん達と夜道をぽつりぽつりと歩く。田舎道は薄暗いのに、いくつもの車やリクシャが通り過ぎて危ない。それでも大量のチベットのお坊さんが暗い道をスタスタと歩いて行く。おばちゃん達は英語を解しない。かと言ってチベット語を理解する訳でもないけど、とにかくチベット仏教を信じるあまり、モンゴルからここまでやって来た。道行くお坊さんに方角を聞きつつ、30分後、目的地に到着。かなりな大きさのお寺だ。中では500人ほどのお坊さんが読経を上げ、入れないお坊さんは外で座っていた。おばちゃん達に「中、見たい?」とジェスチャーすると、おばちゃん達、嬉しそうにうんうんと言う。入り口にいた年配のお坊さんにその旨お願いしてみる。おばちゃん達、さっそく白いカタを用意し、ルピーも取り出す。やがてひとつの読経が終わり、今度は歌のようなリズミカルなコーラス風お経に変わった。歌詞をつけるとしたら「いらっしゃ〜い。お布施をどうもありがと〜う」と思ってしまったのは…私だけだろう。とにかく500人の男性アカペラコーラスが響き渡る中、一人一人進みでて、お参りをしたのだった。
 5年前のインド&ネパールの取材旅行を思い出す時、シムラのお寺で瞑想したり、お坊さんとヨガについて語り合ったりした、あの清廉な気持ちを5年った今でも色あせることなく思い浮かべてきた。NYでヨガをやっている時、たまに同じような気持ちがわき起こってくる事がある。チベットと、チベット仏教の周囲でいたいと思うのには、こんな気持ちが根底にあるからだろうと思う。
ストゥーパのあたりは大混雑。
クッション敷いて五体倒置大会。
このあたりも大混雑。沿道では数珠売ってたり、
ニセナイキ売ってたり。

慈善団体がサンダルを渡そうとしたとたん、わらわらと
ホームレスが押し寄せ、収集がつかなくなるの図。

Friday, January 27, 2012

インドとネパール、マニュファクチャーを巡る旅 Vol.1

 NYに戻ってから2週間が過ぎました。インドとネパール、マニュファクチャーを巡る旅、忘れないうちに綴っておきたいと思います。
 彼らとは毎日メイルのやりとりをしているので、そんなに間隔が開いたとは思っていなかったのですが、もう5年もかの地には行ってなかったのでした。再びのインドの発展は驚くべき!でした。空港、地下鉄、街の装いがこざっぱりとし、あの物珍しそうにこちらを見る男達のまなざしもすっかり消え失せ、なぜかノラ牛も見なくなり、でもインドらしい臭さ、油臭さとか体臭などはそのまま取り残されたように思いました。
 ネパールは相変わらず、電気も物もなく、変わってないなあと。インドと対象的でさえありました。

 今回の訪問のハイライトは、ブッダガヤにおける年越しのカーラチャクラ。仏教の聖地にて、ダライラマによるhighest teachingが行われました。カーラチャクラは最終日近くになるほど重要なのですが、時間があまり取れず、とりあえず最初の3日間だけになりました。
 デリーからの夜行列車に揺られ、なぜか4時間も遅れてガヤに到着。「ガヤは次?」としつこいくらい、車内駅弁販売ボーイに何度も聞く。インド鉄道は到着アナウンスがない。正直そうなインド人、それも複数人に聞くしか情報は得られない。さて、あたりはとっぷりと暗くなり、客引きリクシャが次々と声をかけてくる。事前にNY在住チベット人から聞かされていた「電車の中では荷物にチェーンと鍵を付けておく事(なぜか駅の近くで売っている)。車内ではインド人と話をしない事(なんでよ?)。ガヤからブッダガヤまでオートリクシャで45分。その移動はチベット人と一緒に行動する事(同胞しか信用しないらしい)」は私をびびらせるに十分だった。でも列車を降りたとたん、チベット人達は散り散りにどこかえ消え、見つけた、と思ったら、まったく英語を解さないチベット人は、「ノーノー」と小バエを払うように手を振ってこちらを見ようともしない。何十万人ものチベット人がブッダガヤを目指してんじゃなかったんかい(後で聞く所によると、彼らはチャーターバス移動が多かった模様)。
 孤独……。それもインドの片田舎の暗がりで…。ワット数の低そうなぼんやりした電気の下で、リクシャやら物売りやらがうごめいている…。その人達がここぞとばかりに声をかけてくる。どうすりゃいいのサ…。
 そこでNYで日々使用している携帯を取り出して、インドにいるはずのチベット人に国際ローミングで電話をかけてみた。インドでNYの携帯はおもしろいように電話がつながるのだった(反してネパールはさっぱりX)。そして電話がつながった途端、「リクシャに料金聞いて」とリクシャドライバーに携帯を渡す。ヒンズー語同士はかくもコミュニケーションがスムーズに行くのだった。かくしてこの一見便利な交渉方法、安心と引き換えに、後になって恐ろしい携帯の請求額が届くのだった。